彼が100m決勝のスタートラインに立てば、
スタンドの観衆は静まり返ったものだ。
誰もが固唾を飲んで、レースを見守った。
彼は大阪で100mを最も速く走る高校生だった。
禺画像]居並ぶ他の選手たちの中にあると、
彼がスプリンターとしては小柄であることがわかる。
しかし、彼の胴回りは、誰よりも太かった。
それは、腹筋のせいだった。
ユニフォームの下には、
鉄筋のような硬さをもった腹筋が、
分厚く6つに割れて隆起しているのだった。
「あの選手のスタートダッシュを
よく見ておいた方がいい」
川見店主は他の短距離選手たちに言ったものだ。
「もしも、陸上競技の教科書があるならば、
彼のスタートダッシュこそ載せるべきね」
位置について、ヨーイ……
次の瞬間、ピストルの号砲が鳴り響く時には、
すでに彼はトラックを切り裂きにかかっている。
地面すれすれの前傾姿勢を保ちながら、
頭のてっぺんをゴールに向けて突っ込んでいる。
まるでその姿は、
二輪の大砲が猛スピードで突進していくようだった。
やがて彼の上半身はなめらかに起き上がる。
加速は十分についている。
リズミカルに足のピッチはあがり、
ストライドは軽やかに伸び、
流れるようなスピードに乗ってゴールを切る――。
彼が100mを走るのに、10秒と0.5秒しかかからなかった。
走る時の彼は、誰よりも大きく見えた。
そして、昔も今も、
誰も彼のようにスタートダッシュをすることはできない。
★☆★☆★☆★☆★☆
川見店主は、彼の顔を見るといつもこんな風に言う。
「あなたのスタートダッシュは世界一だからね」
彼も今や二人のお子さんのお父さんだ。
上のお兄ちゃんは今年大学生にもなった。
彼が最後に100mを走ってから、
20年以上もの年月が流れている。
彼の胴回りは昔と同じように太くはあるが、
それは筋肉にかわって年齢相応のモノがついたからだ。
そんな彼、M本さんがふたたび、
陸上競技場のトラックに帰ってくることになりました。
(つづきます)
セコメントをする